先日、Twitterで興味深いツイートを見ました。ここで引用させていただきます。
このツイートの内容を書き出してみます。
まず、ある人がこう発言します。
キリンも好きだけど、ゾウのほうがもっと好きだな。
これに対して、発言を理解できていない人は次のように反応します。
じゃあ、キリンは嫌いってことですか?
好きな動物はなんですか?
ライオンが肉食獣だからって嫌うのはよくないと思います。
いいえ、ウサギの方がかわいいです。
これは極端な例ですが、ちょっと話がややこしくなったときにはよく見られる現象でしょう。
人間が「書いてあることを書いてある通りに読むようにはできていない」というのは正しいと思います。
さらに、主張は「テクストを読むことは特殊技能。訓練しなければ身につかない。」と続くのですね。
ぼくもこの考え方に同意します。
そして、国語を勉強しないといけない理由がここにあると思うのです。
また、大学入試において、理系でも国語が必要になってくるのも、これが理由であるように感じます。
高度な学問をするにあたって、「書いてあることを書いてある通りに読む」技術くらい身に着けてくれないと困るよ、ということなのでしょう。
「書いてある通りに読む」というのが、それほどまでに難しいのは、それが日常であまり求められないからではないか?と自分は考えています。
日常会話においては、「テクスト」というか「言葉」はコミュニケーションの手段の一つであって、それが全てではありません。
相手の表情、口調、仕草などからも情報を得て、それらと「言葉」の情報を合わせ、総合的に判断して相手の意図を解釈する。
これが普段、ぼくたちがやっていることです。
しかし、「テクストを読む」という作業になると、必要な工程が日常会話と全く違ってきます。
表情、口調、仕草などがないのですから、当然です。
テクスト、つまり文字しかないのです。
「書いてあることを書いてある通りに読む」訓練を積んでいない人は、日常会話をこなすときの意識そのままで文字を読むのでしょう。
「テクスト」をそのまま理解しているつもりでも、日常会話のときの癖で、他の情報を自分で勝手に補完していのではないでしょうか。
そのような過程を経て、「ライオンが肉食獣だからって嫌うのはよくないと思います」のような反応が飛び出す。
これがぼくの見方なのですが、どうでしょう?
こうして考えると、とんちんかんな反応が出てくる仕組みと、書かれている通りに読む訓練が必要な理由が理解できる気がします。
「国語なんていらねぇだろ!」と愚痴る人もいるでしょうけど、このような背景を知れば、「まぁ国語も勉強してやるか・・・・・」と思えるのでは?
京大生の現代文の勉強法
最後に一言。
ぼくは、国語の勉強は理系の学生にも必要だと考えています。
それに嘘はないですが、他の科目より優先するべきとは言いません。
受験戦略を考えれば、数学や英語により多くのリソースを振るほうが賢いです。
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